こんにちは。
今日は「競走」ということについて話します。
大学入試は合格者と不合格者が出るという点でまさに「競走」なわけですが、今日はそんな「競走」の危険性について書いていきます。
ところで、みなさんは劣等感を感じた経験はありますか?
誰しも一度は感じたことがあると思います。
僕も高校生の頃は、本当に劣等感を感じることが多かった気がします。(今は、ほとんど感じなくなりましたが)
高校生の日常は「競争」にあふれています。
学校では毎回のテストで順位が発表され、
クラスでは友達関係の序列があり、
部活では、誰がレギュラーになるかの争いがあります。
こうした環境に身を置いていると自然と、
- 人より上に…
- 周りと比べて自分は…
という考え方をするようになっていきます。
今日は、こうした「競走原理」の内にひそんでいる危険性について書きたいと思います。
- いつも人と比べてしまう
- 人からどう思われているかが気になる
- 自分に自信が持てない
と思っている方は、ぜひ続きをお読みください。
危険性1:結果主義、成果主義になる
一つ目の危険性は「結果主義」になってしまうということです。
簡単に言うと、「結果がすべて」ということです。
高校生活に当てはめると、
- テストの順位がすべて
- 部活の試合で活躍できるかがすべて
- クラスの中で上の地位にいけるかがすべて
といった考え方です。
口には出さずとも、こうした考えを持っている人は少なくないように思います。
そしていわゆる「できる奴」ほどこう考えているように思われるかもしれません。
しかし、この「結果主義」には大きな問題点があります。
まず
①「過程」を楽しむことができなくなります。
結果主義の人にとっては、結果を出すための努力の日々は辛抱、苦労の毎日となります。
「合格の瞬間を思い浮かべる」あるいは、「大会で優勝した場面を思い浮かべ」、これをモチベーションに毎日つらく厳しい勉強(トレーニング)を行うといったイメージが出来上がっています。
「え、これのどこがいけないの?」と思った方もいるかもしれません。
確かに、将来の良い自分をイメージして、今をがんばるというのは良いことでしょう。
しかし、今を「つらい辛抱の日々」と見なすと、本当はかけがえのないはずの毎日が「単なる無数の辛い修行の中の1日」になってしまうのです。
こうなると、ただ淡々と日々のノルマをこなしていくようになります。
これが「結果主義」の問題点の一つです。
そしてもう一つは、
②、「全か無かですべてを決めてしまう」という点です。
結果主義に陥ると、もし結果が出なかった場合、全てが無駄だったと考えてしまう危険性があります。
これは一般的に「全か無か」の考え方と呼ばれます。
(あるいは、1か0か、白か黒かとも呼ばれます。)
この考えがクセになるとどうなると思いますか?
もし結果が出なかったら、全てが無駄になってしまうのだから、
初めから確実に成功するとわかっていることしかしないでおこう
となるのです。
または、
「失敗したら無駄になってしまうから、チャレンジするのはやめておこう」
と考え始めます。
しかし、冷静に考えてみると、ものごとには「成功と失敗の二択」が常に存在しているわけではありません。
全体的には失敗に見えても、部分的にはうまくいった部分、もう少しのところだった部分は必ずあるはずです。
そこを丁寧に振り返れば、今回はダメだったけど、次はうまくいくことだって全然あります。
結果だけで判断すると、その過程で手に入れた貴重な数々の経験を見失うことになるでしょう。
これらが「競走」が生む、結果主義の問題点です。
危険性2:人の成功をねたみ、失敗を喜ぶようになってしまう
「競走」という視点でいろいろなことを考えていると、人が成功した時、自分が遅れをとったような気がしてその成功を素直に喜ぶことができなくなってしまいます。
反対に、誰かが失敗したところを見ると相対的に自分が上に立てるので、喜びと感じるようになります。
もちろん口には出さないでしょうが、ひそかに考えてしまうのです。
これを聞いて、「うわ、性格悪いな〜」と思う人もいるでしょうが、これは性格の問題ではなくて、ものごとを「競走」という視点で考えるから起きてしまうことなのです。
本来、仲間であるはずのチームメイトやクラスの友達をこのように見てしまうととても辛いですし、そう考えてしまう自分のこともイヤになってしまいます。
確かに、いわゆる「ライバル」のようなお互いを認め合う競争相手もいるでしょう。
相手がピンチの時に、助けに入って、
「お前を倒すのは、このオレだ!だからこんなところでやられるな!」
みたいな少年マンガにありがちなやつですね。(みなさんは、どのキャラでこの声が再生されたでしょうか…)
これは確かに失敗を喜んではいません。おそらく相手が成功してもねたまないでしょう。
しかし、これは前提として、「自分に対する揺るがない自信」があります。
ライバルと競走しているけれど、それとは関係なく「自分には価値がある」と思えているのです。
また、相手のことも実力だけではなく、その人間性にも惹かれていたりします。
したがって、今考えた「ライバル」のような関係って、実は競走が本質ではありません。
おそらく競走しなくても普通に友達になれるでしょう。(少年マンガ的には面白みがないかもですが…)
マンガの世界はさておいて、私たちの日常でそのような「ライバル=友人」を見つけることは至難の業です。初めは切磋琢磨しているように感じていても、競走の視点に立ち続けていると、やがてねたみの気持ちが生じてきてしまうでしょう。
少々悲観的に聞こえるかもしれませんが、「競う」という考えにはこうした面がついてくるリスクがあるということを覚えておいて下さい。
危険性3:競走から自由になれず、人と比べることで自分の価値を確かめてしまう
とは言っても、「競走って勝てば気持ちいいし、勝てるならいいのでは?」と思うかもしれません。
しかし、この「気持ちいい」というのが少々厄介です。
何かができるようになったのを嬉しいと感じるのは普通のことですし、それ自体全然悪いことではないのですが、この喜びが「他者に競走で勝利した喜び」だと勘違いしてしまう可能性があります。
これが進んでいくと、「競争に勝てる自分」に価値を見出し、どんどん競争にのめり込んでいきます。
最初に書いた
- あいつよりも勝っているから大丈夫だ
- みんなよりもこの点は優れている
といった考え方で自分を認めるようになっていきます。
その結果、
- 自分を必要以上にSNSでアピールしたり
- 過去の自慢話をしたり(暗に、自分をそれとなく自慢するのも含みます)
- 相手の成功した話を聞くと辛くなったり
といった行動が増えていきます。
はっきりと言っておきます。
競争の中に身を置く限り、自由にはなることはできません。
たとえ今回は勝っても次の勝負は負けるかもしれず、これが永遠に続いていきます。
「競走」は敗者だけが苦しむものではありません。勝者も、いや、あるいは勝者の方が苦しむ危険性があるとすら言えます。
まとめ
まとめます。
「競走」を意識しすぎると陥ってしまう危険性
- 結果主義、成果主義になる
- 人の成功をねたみ、失敗を喜ぶようになってしまう
- 競走から自由になれず、人と比べることで自分の価値を確かめてしまう
です。
すみません。
今日は、やや暗い雰囲気の記事となってしまいました。
もちろん、全ての人がこうした考えに陥るというわけではありません。健全な思いを保ちながら競走を楽しむことができる人もいるでしょう。
しかし、その危険性についてはぜひ知っておいてほしいな、と思います。
「競走原理」というのはとても理解しやすい考え方であり、非常によく世の中に浸透しています。それだけにその危険性を意識していることは大切だと言えます。
とはいえ、私たちは生きている限り、完全に競走から自由になることはできません。
それでは、実際に競走の場面に直面した時、どう考えればよいのか。
長くなったので、続きは次回にしたいと思います。
(次回は、解決編なので明るい話です!ご安心ください笑)