「古文なんて勉強して将来何の役に立つのか?」
生徒たちから毎年一度はこうした質問を受けます。
古文に限らず、他の教科・科目でもこうした質問を受けることでしょう。
特に数学とか。(僕も思ってました。すみません。。)
これまでは、いろいろと答えたり答えなかったりしていたのですが、最近はこう答えるようにしています。
それは
「少なくとも大学受験には必要だよ。」
です。
あるいは、大学受験に古文が不要な生徒であれば
「少なくとも卒業するためには必要だよ。」
と言います。
皆さんはこれを見て、
「ん?何か答えがズレてない?」
と思ったのではないでしょうか。
おそらく、生徒たちは将来の(特に実生活の)場面で、古文がどう役に立つのかを尋ねているのでしょう。
受験や卒業に必要だという答えは、「古文にしかない価値」を伝えていないという点でどこかふさわしくない答えだと感じる方もいるかと思います。
しかし、僕はあえてこの質問に”マジメに”答えません。
1、生徒が本当に知りたいのは理由ではない
なぜ、生徒の質問に対して、きちんと答えないのか。
それは、「たいていの場合、生徒は本当に古文がどう役立つのかを知りたいわけではない」からです。
生徒が「古文なんてやって何の意味があるのか」と言う時、その真意は別にあります。
「古文がつまらない・やりたくない」
です。
これを無視したまま、いかに古文が将来役に立つのかを説明しても、生徒たちはおそらく興味を示さないでしょう。
有名な古文の専門家の主張を出してきたり、文部科学省の「古文で身に付けさせたい力」を分かりやすく解説したりしても、質問した当の本人は眠たそうな顔をしてその話を聞くでしょう。
なので、こうした質問が出たならば、「古文がつまらない」というメッセージであり、ひいては「面白くしてほしい」という教師へのリクエストでもあると言えます。
「これをやって何の意味があるのだろう」とか、「なぜこれをしなければならないのか」と考えてしまう時、たいていはそれを楽しいと感じられていないことが多いです。
極端な例ですが、「僕は何のために生きているのだろう」という疑問は、人生を楽しめていないから出るものだと言えます。
「じゃあ、質問を適当にはぐらかして、それでいいのか?」と言えば、そうではありません。
では、どうすればいいのか。
2、意味を考えなくていいほど「楽しい」と思ってもらえる努力をする
つまらない→こんなことして何の意味があるの?
という思考になるならば、やるべきことは一つです。
前提の「つまらない」を「おもしろい」変えるために、真剣な努力をする。
これだけです。
古文が「楽しい」「おもしろい」と思ってもらえるように最大限の工夫を凝らし、力を尽くすことです。
もちろん、何を楽しいと感じるかは生徒によって異なるので、全員に楽しいと思ってもらえるのは難しいでしょう。
「古文が楽しい!」よりも「まあ、つまらなくはないか。」くらいが現実的なラインでしょう。
できる工夫として、いつも僕は3段階のアプローチを考えています。
3、「楽しさ・おもしろさ」を感じてもらうための3段階
1)知る
多くの人が、自分の知らなかったことを知ることや、新たに情報を得ることを楽しいと感じます。
雑学やニュース、流行などがテレビ番組やSNSで毎日流れているのも、人々がそれを求めているからです。
なので、古文でもまずは「知っておもしろい」情報を紹介するようにしています。
例えば
- 夢の解釈について
- 昔(平安時代)の美人の条件について
などがあります。
知っている人からすれば、「なんだ、そんなことか」と思うかもしれませんが、初めて知る生徒からすると「そうなんだ!」となかなかの好反応を得られることが多いです。
「今と昔との違い」という観点で考えてみると、こうした”小ネタ”は結構見つかります。いくつかストックを持っておくとよいかもしれません。
2)考える
知る楽しさは「へぇ〜なるほど」と興味を引くことができますが、個人的には、その興味はあまり長続きしないように感じます。情報を次から次へと取り入れていくうちに「飽き」が来てしまいます。
ゆえに、ある程度「知る楽しさ」を味わうことができれば、次の段階「考える楽しさ」をどのように味わってもらえるかを工夫します。
具体的には
- 古典文法‥助動詞の識別は慣れてしまえば、知識問題として処理できますが、はじめのうちは色々なパターンを考えながら、一つに絞り込んでいくかと思います。この過程は、さながらパズルのようで、考える楽しさを感じられる瞬間です。
- 文章読解‥先ほどの「知る」段階で学んだことを活用して、登場人物の行動の理由などを考えていくと「だから、こうしたんだ!」というのが初めて理解でき、それは古文を本格的に面白いと思うきっかけにもなります。
このあたりは、生徒たちとの関係性や教師の力量も非常に重要になってくる部分だと思います。
※僕も日々、努力しています。
3)わかる
古文の世界を「知り」「考える」プロセスを踏んでいくと、当然ながら文章が「わかる」、テストの問題が「わかる」ようになっていきます。
3つめの段階は「わかる」です。ここまで来ると「古文なんてやる意味あるのか」と考えていたことすら忘れて古文の勉強を自主的に行うようになります。
「わかる・できる」喜びというのは、他の喜びと同様クセになるので、こちらから特に勉強しなさいと言わなくても、自分からテキストを開いて平安時代へとタイムトラベルしていきます。笑
(本格的にハマる生徒だと、教科書より詳しく書かれている本を買って読んだり、百人一首を覚え出したりします。)
本来の学びとは、こういう状態を言うのだと思います。もちろん、全員が必ずこの段階へ至るかと言えば、そうではないかもしれませんが、教える側として、生徒たちがこの段階に到達できるようサポートしていきたいと思っています。
補足:古文は将来かなり役に立つ…人もいる
誤解のないように言っておきますと、
古文は全ての人にではないかもしれませんが、将来確実に役に立ちます。
近い将来では大学で
- 文学
- 歴史
- 言語
- 国際
といったジャンルを学ぶ人にとっては、古文を学んでおくことは役に立つどころか、必須でさえあります。
だからこそ、こうした学部の入試では、古文はきちんと出題されます。
ゆえに、「少なくとも大学受験には必要だよ。」という答えは、テキトーなようで結構当たっている回答だったりします。
まとめ:生徒が本当に求めていることを知る
まとめます。
生徒の「古文なんて何の役に立つのか」という質問は、本当に古文学習の価値を尋ねているのではなく、「古文がつまらないから、何とかしてほしい」というメッセージである。
だから、教える側としては「古文を勉強することの価値」を正論として与えるのではなく、「古文を楽しく学べる工夫」を最大限行う。
ということですね。
生徒に限らず、誰を相手にしたとしても、「相手の言うことをそのまま受け取ってはいけないケース」というのはよくあります。
「相手が本当に求めていることは何か」を考え、それを行動に移していく。
難しいけれど大切なことだな、と感じます。
久々の更新で、文章が読みにくい部分もあったかもしれません。
最後まで、読んで下さりありがとうございました!